ちょっとした判断ミスや失言で積み上げてきた実績や人気が簡単に崩壊。一転して好感度ゼロになるどころか四方八方から叩かれる悪役になってしまう。そんな人が近年多くなりました。
逆に、好感度とは無縁の場所にいた人がじわじわと好かれはじめ、国民的なスターになるケースも。
人間の見え方や立場は簡単に変わってしまう、変えることができる、という現代です。
さて、プロレスには「ベビーフェイス」と「ヒール」という役割が存在します。興行プロレス発祥からある、必要不可欠な要素です。
今回は、現代のプロレスにおける「ベビーフェイス」と「ヒール」について考えてみます。
「ベビー」と「ヒール」ってなんだろう
まず、この言葉の意図するもの。
ベビーフェイス(ベビー)は「正義」「良い人」「善玉」「クリーン」「真面目」というものです。
ヒールはその対極、「悪党」「悪い人」「悪者」「ダーティー」「反体制」です。ざっくりですが。
プロレスラーはそれぞれ、自分の役割としてそれを演じている…と書くとあまりにも野暮なので、そういうポジション、会社でいう「部署」だと捉えてください。「ベビー部」「ヒール部」に所属し、その立場から各選手が自己表現しています。
昭和時代の日本のプロレスでは、主に外国人選手がヒールを担っていました。反則やラフな攻撃で対戦相手を痛めつける光景が基本でした。
その後、外国人選手だけでなく日本人選手のヒールも定着。海外から選手を呼ばなくても国内の選手だけでベビーvs.ヒールの対立や抗争を見せられるようになります。
そして、ベビーで人気のあった選手がヒールになったり、ヒールが観客から支持を得て団体の軸になることも。ヒールは引き立て役ではなく主役のひとつになりました。
時代は過ぎて団体が乱立し、テレビや雑誌以外での情報発信が盛んな現代、本気で憎まれる存在のヒールがほぼ絶滅危惧種状態になっています。
これは、試合以外でのサービスや、SNSの発達で選手とファンの距離が近くなったこと、反体制の美学が根付いたこと、そしてコンプライアンスの変化が原因にあると思います。
プロレスに対するファンの見方も時代とともに変わっていき、ベビーにせよヒールにせよ、観客の支持を集めることの難しさや恐ろしさが露呈してしまうケースも増えはじめます。
パフォーマンス先行型のベビーの選手がブーイングを浴びたり、共感を得たヒールに声援が集中したりと、団体や選手が意図しない方向に転がっていくこともあり、プロレスという競技は簡単ではない、ということを思い知らされる瞬間です。
そして、ベビーの選手が突然裏切りや背面行為を行い、悪に染まっていく。これが「ヒールターン」です。俗にいう「闇堕ち」です。
それが個人やユニット間の抗争に発展していくことで、新たなストーリーが生まれます。
この逆も然りで、ヒールユニットから追放されベビー側に就く「ベビーターン」もあります。
こうしてプロレスの戦いの構図は変化していきます。歴史はこれの繰り返しでもあります。
ベビーとして ヒールとして
ここまで読んでいただくと、選手にとって役得なのがヒールに集中してない?ベビーであることの利点は?と感じるかと思いますが、個人的観点から言います。
その通りです。極論ですが。
プロレスでは、ヒールになった方が何かと都合が良いのです。
実社会はもちろん、ほかのスポーツ競技や芸能界などでヒールになっても得なことは全然なく叩かれるだけなのに、プロレスって本当に不思議なジャンルです。
先ほど、現代は徹底したヒールが絶滅寸前と書きましたが、ヒールという役割自体は残っています。
ただ、どうしても怖さや憎々しさを主張できない時代なので、ヒールそのものの価値観が変わってきているのです。
「悪党」から「自由奔放」の意味になっているのが現代のプロレスにおける「ヒール」です。
ヒールは楽しいですよ。やりたいことやれるし。暴言も言い放題だし。凶器で攻撃できるし。悪態ついても持ち味になるし。人間味のある温かさ優しさをちょっとでも見せればそれが印象に残りさらに支持が大きくなるし。
逆にベビーは窮屈ですよ。真面目じゃないといけない。ファンサービスも徹底的に。反則なんてダメに決まってる。ファンに暴言なんて言えるわけない。不道徳な行動や発言をちょっとでも見つかった途端に叩かれ炎上する。
この偏ったバランス。
昔はまだしも、今の時代にベビーフェイスを選ぶプロレスラーのメンタルは相当強くないとできないと思います。
だからこそ感服させられるのです。
プロレスラーの二面性に敬意
プロレスを雑に見ている人はよくこう言います。
「ベビーフェイスほど性格良くない」…違います。
「ヒールは実はいい人」…でたらめです。
ベビーフェイスでもめちゃくちゃ善人はいるはずですし、ヒールでも根っからのクズはいるでしょう。人間ですから。
ただ、正直そこはどうでもいいんです。各選手が実際に善人か悪人かなんて興味ないです。
我々が見ている、そして見たいのは、プロレスラーとしてのその選手の価値なので。
自己表現の手法としてのベビーとヒール。今の自分をプロとしてどうお客さんに伝えるか、その手法においての善か悪かが重要なんです。
たしかに、自由奔放に自己表現できるヒール側の方がやりやすいでしょう。
一方で、ハイリスクローリターンな自己表現を選び、支持を得るため様々な方法を試行錯誤し、決して楽ではない位置から全員を納得させようと努力するベビーフェイスの選手は偉大です。
もちろん、ヒールの選手にも敬意を持っています。
ヒールがいてこそ輝くのがベビーフェイス、でもありますが、ベビーフェイスがいてこそ輝くのがヒール、でもあるのです。卵が先か鶏が先か、みたいなものです。
そして、そのどちらの要素も持ち合わせ、表現できるのが「最高のプロレスラー」なのかと思います。
日常でのベビーとヒール
プロレスに限ったことではないですが、見た目も行動も悪い人(ヒール)が見せた小さな親切や優しい一面。そして、見た目も振る舞いも良い人(ベビー)がしでかした些細な不祥事や冷たい態度。
このふたつ。この格差って大き過ぎませんか?
だったら生きるうえで、最初からヒールでいた方が得なんです。
真面目にベビーフェイスをやっていても損をする確率が高いなんて理不尽だなぁ、と常々感じてます。
プロレスだったら突然仲間を裏切って、暴言を吐き、非道徳な行動をすればヒールターン成功です。
その時点からヒールと認識されます。新しい自分でこれからやっていこう!と意気揚々にもなれます。
が、実社会でそれをやるとヒールターンなどできず、「あんな真面目そうな人が実は…」という落胆や軽蔑だけが返ってきます。行動によっては警察沙汰からの刑務所行き、クリミナルターンです。
それは自分自身が、生きているという自己表現で「ヒール」より「ベビーフェイス」を選択した、というのが大きいですが。
プロレスは非日常の世界。
それがうらやましくもあったり、実現できない希望を形を変えて叶えてくれる場所でもあったり。
その非日常に自分を投影するのも、プロレスからもらえる楽しさのひとつです。
そもそも。
「善」と「悪」と簡単に言いますが、その定義って見る側の視点の問題で。正しいこととして行動している自分側はもちろん「善」だし、それに反発する相手側は「悪」として映るわけで。
戦争もヒーロー映画もそうですが、何を以てして善なのか悪なのか、簡単に決めつけるのが難しい部分もあります。どちらも「ベビーフェイス」なのですから。
勧善懲悪というものはプロレスにおいて大事な要素ですが、懲らしめられたヒール側からしたらただのバッドエンドですからね。そのときの視点や判断はとても重要だと思うのです。
根底は善!
と考えていたら、新しい真理が出たのです。
そうか!
プロレスラーは個人が自己表現をする競技だから、自分のやっていることはもちろん正義。
ということは、全員が「ベビーフェイス」なんだ!
全員がベビーなら、全選手が偉大なんだ!と。
今回のまとめ。
ベビーフェイスもヒールも分け隔てることなく、
二面性を持ち合わせた自己表現者。
全(善)プロレスラーが偉大です!
余談ですが、先日、横断歩道の前で大きな荷物を運ぶのに困っているおばあさんを見かけたのです。
私はおばあさんに優しく声を掛け、荷物を背負い、そっと手を引いて、信号を無視して渡りました。
これは、ベビーフェイスでしょうか。ヒールでしょうか。
では、またここで。