いい映画を見たあとに「でも、これ作り話なんだよね」「カメラで撮ってる時点でリアルじゃない」と言ったり。
連続大河ドラマの途中に「このあと本能寺で殺されちゃうんだよね、信長」と言ったり。
ドキュメンタリー作品なのにクローズアップされている主人公がずっとカメラ目線だったり。
ぜんぶ「テンション下がるわー」という興醒めな気分になりますね。
このように、フィクションとノンフィクションの境界線をしっかり引きたがる人。架空世界と現実社会の交錯を認めたくない人。少なくはないはずです。
そういう人たちは普段どんなエンタメを楽しんでいるんでしょうか。そういったものは一切見ずに、キャンプやナイトプールではしゃぐだけが楽しみなんでしょうか。それはそれで良いですが。
ただ、フィクションとノンフィクションの曖昧さを心地良く感じ、活力源にしている人も多いんですよ。
私がそうです。プロレスが大好きなもんで。
エンタメはほぼ曖昧なそれに含まれるのですが、プロレスはそれの極みだと思います。
今回は、プロレスにおけるフィクションとノンフィクションの境界線、についてのお話です。
『極悪女王』の大ヒット
今話題になっているNetflix作品の「極悪女王」。なんと、日本国内の視聴ランキングで公開開始から3週連続1位だそうです。
Netflixならではの莫大な製作費、派手な宣伝、視聴者の評判、そして実際に面白い。まだまだ話題作ですが、まさか80年代の女子プロレスがテーマの作品がここまでヒットするとは正直驚きです。
ここでは「極悪女王」の内容や感想は一切出しませんが、それだけストーリーや演出、役者さんの迫真の演技が素晴らしいという評価、そしてこの題材に興味を持つ視聴者層をしっかり掴んだクオリティの高さがこの結果だと思います。
ニッチなエンタメだと思っていたプロレスを軸にした作品がここまで世の中に広まるのが嬉しくもあり、不思議にも感じます。
ドラマの影響で不安なこと
一方で、少し気掛かりなことも。
この作品の中で描かれて(使われて)いるプロレスの内部事情や隠語がそのままプロレスファン以外の人の一般知識として根付いてしまうのではないか、という不安の声も挙がっています。
作品紹介で「実話をもとにしたフィクション作品」と謳っていますが、登場人物の名前とそのキャラクターは実際にいる選手。現実と同じ。
自叙伝や史実で構成された作品ですが、当時の時代背景や出来事がそのまま反映されているので、ここで出てくるプロレスの裏側での表現や言葉も実際に使用されているもの、と自然認識してしまう視聴者は多いはずです。プロレスファンじゃなければなおさらです。
この「極悪女王」に関して感想を求められた当時の関係者や現役選手は誰もが「とても良い作品だった、けどそういう隠語や取り決めはなかった」と語っています。あくまで架空だと。
この作品、内容は架空、設定は現実と、フィクションとノンフィクションが入り混じっているのです。
もちろん、作品に刺激を加えるスパイスとしてあえてそのような表現を用いたのでしょう。暴露がテーマの作品じゃないですし、そのスパイスが活きて秀逸なヒューマンドラマとして成立し、視聴者数が増えているのも事実。
ただ、お堅めのプロレスファンからはアレルギー反応が起きる純粋に楽しめない内容のようです。
ここで私は思いました。
やってるやってない。使った使ってない。架空と現実の交錯。
「曖昧さこそプロレスだ!」と。
プロレスでの架空と現実
私見ですが、個人的にはプロレスの裏側とか隠語とか実はどうでも良くて、そういうところに位置しないのがプロレスでありエンタメだと思っています。冒頭の映画やドラマの作り話の喩えのそれです。
そこは全然気にならない。プロレスがフィクションだろうがノンフィクションだろうが、裏でどうなってようが、結果、見る側が楽しければ、面白いと思えれば、ずっと見続けたくなる活力になってくれれば、それで問題ありません。
なんだったら、架空と現実の曖昧さすらプロレスの魅力でもあります。
目の前で起こること、客席から見える世界がプロレスだと思っているので、それがフィクションでもノンフィクションでも気にしないです。
選手が相手へ投げた言葉や技がフィクションであっても、その中に込められた相手への憎しみや信頼や期待や無関心という関心、そんなノンフィクションな感情。それを観客個々が自分で見つけて楽しめるのがプロレスです。
そして、ひとつの試合で気持ちも痛みも喜びも悔しさも全部をお客さんに伝えることができるのが、架空と現実が曖昧なエンタメの極みであるプロレスを表現するプロレスラーのエンタメスキルの高さなのです。
わかりやすく伝えることや、注目を引くこと、その先を期待させる煽り、そういったスパイスも選手それぞれが考える分量で加えます。
それがフィクションでもノンフィクションでも、その匙加減の巧妙さに我々プロレスファンは魅了されさらに深い沼に嵌っていくのです。
やがて見えなくなる境界線
世間一般の人はプロレスに架空と現実の境界線をつけたがります。
ですが、プロレスが好きになればなるほどその境界線は気にならなくなり、やがて見えなくなり、フィクションとノンフィクションをひとつにして楽しめます。むしろ結果がすべてでなく、考える余地をもらえる最高のエンタメです。
その曖昧さ、とても心地良いですよ。
「極悪女王」を見て、もしプロレスの架空と現実の境界線で不安な表情をしたまま彷徨っているファンの人がいたら、夢想家の私が近くへ行って唄ってあげましょう。
想像してごらん 架空なんてないと
やってみれば簡単さ
ぼくらには現実もない
そこにあるのはリングだけ
想像してごらん さぁみんなも一緒に
ただプロレスを楽しもうとしていると
本日のまとめ。
プロレスファンはジョン・レノンです。
Netflixさんへ。
もしプロレスの史実を基にしたドラマの第二弾を作るなら、
次回作のテーマは「1987年1月23日 新日本熊本旅館破壊事件」はどうでしょう。
多くの選手や関係者からあらゆる証言が出てる架空と現実の線上にある出来事ですし、人間ドラマもありますし、ド派手に旅館を丸ごとぶっ壊せるくらいの製作費もあるでしょうし、地上波では放送できないコンプライアンス無視なシーンも山ほどありますし。
絶対、ヒットしますよ!
では、またここで。