今回は「できる」「できない」「やらない」「やってみる」とプロレスの技術について個人的な見解のお話です。
できることをやらないは難しい
人は、できることをやらないと、怠慢だ甘えだと言われてしまいます。
できないことをやろうと取り繕うのは無謀ながらごまかしや真似事で何とか乗り切れますが、できるのにできないよう見せるのは、簡単なことではありません。技術や経験が必要です。
例えば、九九
例を挙げると、かけ算の九九。
小学校の時に教わって以来、誰もが数式でなく言葉として頭の中に染みついているはず。
もうそれを当たり前のように使っていますし、よっぽどじゃないと忘れること間違えることもないでしょう。
では、いまから4の段をかけ算ができない人と思わせるように、全部を微妙に間違えてスムーズに言ってみてください。
…どうでしょう。できますか?頭の中で間違うことを考えてすぐに適当な数字が出てこなかったり、突拍子もなさ過ぎる数になったり、つい正解が出てしまったりしませんか。
一度頭や体に基本や常識が定着してしまうとできないというものを出すのが難しくなります。言うだけでなく、書くのも頭の中で唱えるのも容易ではないです。
例えば、ボケ
かの偉大な芸人さんがこんなことを言っていました。
「ボケというのはね、正解を知ってるからボケになる。正解を知らないでボケてるのはただの知識がない人。それはボケじゃなく間違いっていうんですよ。」
これはお笑いの中だけでなく世の中にも通じることで、できる人じゃないと成立しないのが「できない」という発言や所作なのです。
「できないこと」を「できるように見せる」ことはどうにかなるけど、「できること」を「できないように見せる」のはたくさんの経験や技術がないとできない。
ややこしい言い方になりましたが、それを踏まえて、プロレスの話へ。
プロレスの「できるのにできない」とは
では、プロレス及びプロレスラーに「できるのにできない」はあるのでしょうか。
はい。その状況、たくさんあります。
むしろその技術こそがプロレスの醍醐味のひとつ。
「できない」というよりも、「やらない」という選択肢があるのです。
プロ野球の世界では成績や結果が一番重要で、バッターなら打つ、ピッチャーなら抑えるなど、選手はその場面にできることを考え、ベストな結果に近付けるために常に全力で挑むのが当然。
その場面で結果が出ないと怒られたり野次られたり何ならクビにすらなってしまいますが、そんな場面で「敢えて打たない」というコマンドがあるのがプロレスの特徴です。
ただし、これは「打てない」じゃなく「打たない」のです。技を出さないのです。
できる技を「出さない」意味
なぜ技をやらないのか。それは、プロレスが成績や結果だけがすべてではない自己表現の競技だから。
派手な技、意外性のある技をここでやればお客さんは確実に盛り上がる。相手にもダメージを与えられる。でもここではやらない。
本当はできるけどできないように見せることで、その技ができたときの盛り上がりやダメージがそのときよりもっと大きなものになって跳ね返ってくるのです。
観客は強さだけでなく、試合中の攻めや受けの中で、選手の個性、美しさ、リズム、なにより選手とのシンクロ、それらすべてを「プロレス」として、その駆け引きや感情の衝突に一喜一憂するのです。
選手は自分のキャリアやキャラクター、現在の立ち位置、そして観客に何を見せるべきか、などそのときその状況にあった技を選択し、即座に出す技を判断します。できるけどやるべきでない技は選択しません。
そうではないケースもあります。滅多に出さない技なのに、自分にもできる、やったら盛り上がる、だけで使う選手は、言葉は厳しいですが浅はかです。
できないのにやる、は無謀でバレやすく不格好なことを選手も把握しているので、よっぽどの場面でないと見かけません。それを平気で無意識にやってしまう選手は正直“プロ”の域ではないと思います。
その試合その場面でどの技をチョイスするのかは選手によりますが、「出さない」というのはテクニックなのです。
経験値と技術力と選択肢
新日本プロレスの若手選手(ヤングライオン)たちは、その期間を卒業するまで派手な技に頼らず試合のリズムを学びます。必要最低限の引き出ししか開けないことを求められます。
一方、DDTの若手選手は、デビュー直後から個性重視を求められています。ヤングライオンとは異なり、引き出しは全開放、できるだけ多くの技を出すことで個性を光らせます。
若手育成は団体によって方針が違うのでどちらが良いという答えはなく、どちらもベストな選択です。
ただ、どこの団体であれベテランの域に入ると、経験値に伴い“技術”は増していきます。
だんだん自分に必要な技の数も絞られ、最低限の技、動き、アピールだけで試合を組み立て盛り上げられるようになるのです。
ゲームの主人公のように、成長すればするほど使える技や動きが増えてくるのとは真逆です。
もし、観戦した大会で同じくらい盛り上がった試合があったとき、より観客の印象に残るのは出す技が少なかった試合の方でしょう。それが所謂「ベテランの巧さ」なのです。
「巧い選手ほど技を出さない」というのはこういうことで、決して自分ができる技が少ないということではありません。やらないという正しい選択肢のひとつです。
足し算のプロレス/引き算のプロレス
マニアックな言葉になりますが、プロレスを見続けてあらゆる知識を入れていくとよく耳にする、「足し算のプロレス」「引き算のプロレス」という言葉。それっては何なのでしょう。
具体的な表現が難しい定義ですが、上記の見解を踏まえて、自分なりのざっくりとした解釈としては
足し算のプロレス=できることはやるし、できることを増やしていく
引き算のプロレス=できるけどやらないし、やることを絞っていく
ということだと思ってます。
ここ一番で、不器用そうな選手が普段は使わない華麗な技を出したときの観客の盛り上がりと印象はとても大きいです。「できるけどやらない」を重要な場面で出す。引き算が急に足し算になる。観客大興奮。それができるのも「できるけどやらない」の賜物なのでしょう。
やらない技術 やってみる覚悟
ここまで、プロレスの技は「できるけどやらない」という技術がある、ことをお話ししました。が、重要なのは、それは技に限る、ということ。
プロレスにおいて一番大事で一番感情が揺さぶられるのは、選手個々のヒストリーやアイデンティティなどの生き様なのです。
「できるけどやらない」は技に関してだけで、自分を表現するアピールや新たな挑戦は「できないかもしれないけどやってみる」じゃないと心に響きません。
その選手のヒューマン・リアリティが見えるのは、技ではなくプロレスへの志や意欲です。
自分がどう見られるか。愚直に見えるのか滑稽で遊んでいるように見えるのか。届いているのかいないのか。影響を与えているのか嘲笑されているのか。そこを不安がって枠からはみ出ようとしないのはプロレスラーとしては残念です。できるかどうかわからないしどう見られるかわからないけど、自分がやりたいと思ったらやってみる、そんなプロレスラーこそ輝いて見えます。
技は目で見て「凄い!」とわかりますが、志はなかなか見えないしうまく伝わりません。
ただ、もし選手と観客、与える側と受け取る側でそこが一致したとき、とんでもなく大きな感情移入に変化するのです。
「できるけどやらない」という技術と、「できるかわからないけどやりたいからやる」という覚悟、矛盾しているかのようなふたつの「can」をリング上で体現するプロレスラーという人たちとプロレスという競技。最高じゃないですか!
こんな素晴らしいものほかにないですよ!はー、尊敬。
I can do it!
今回のまとめ。
やらない。やってみる。
両方を併せ持つ、それがプロレスラー。
これからもたくさんの「can」を見せてください!
では、またここで。